常設展
「地図の楽しさ」は地図に描かれた文字を読むことだけでなく、1枚の地図の先に広がる物語を知ることにあります。
当ミュージアムでは地図が持つその物語を、歴史背景や製作者の思いとともに紹介することで地図の面白さをお伝えできるよう展示を行っております。
ここでは常設展の3つの章の中から展示品の一部をご紹介します。
展示一覧

世界の中の日本
15世紀の大航海時代に大きな影響を与えた、マルコ・ポーロの『東方見聞録』。その中で紹介された黄金の国「ジパング」は羨望の眼差しを向けられ、想像で地図に描かれ始めた。16世紀に西洋人が初めて日本を訪れて以来、キリスト教の布教や南蛮貿易を通じて、徐々に実在の国として「ジパング」が地図に描かれ始める。そして一人の地図製作者により「日本図」の精度は頂点を迎える。17世紀~19世紀の「鎖国」体制下の日本では、江戸幕府による国策事業として、「正しさ」を求める地図製作が行われ、民間では「美しさ」や「使いやすさ」を追求した地図が作られていった。一方キリスト教の禁教・迫害により、日本の情報源を失ったヨーロッパの日本図は徐々に「正しさ」が失われることとなった。その頃ヨーロッパの国々では、貿易拡大を狙い新たな土地を探すための航海が続けられていた。そのような中で、未知のオーストラリア大陸が判明し、最後の空白域として残されたのが、「日本の北方領域」であった。本章では、西洋社会において想像で描かれた「ジパング」が交流の中で正確に描かれ始め、「鎖国」によって再び遠い存在となっていく過程と、世界地図最後の空白域「日本の北方領域」が解明されていく様子を、その歴史を映し出す「地図」とともに紹介する。
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伊能図の出現と近代日本
江戸時代後期、「鎖国」体制下において、伊能忠敬による全国測量が行われた。伊能忠敬は17年の歳月をかけて測量を行い、日本で初めて実測に基づく正確な日本全図を完成させた。幕府は、軍事的観点から海外への流出を防ぐため「伊能図」を「秘図」として扱った。文政6年(1823年)にシーボルトはオランダ商館付の医師として来日し、西洋文化を日本に伝えるだけでなく、熱心に日本について研究し資料を収集していた。彼は帰国時に「秘図」であった「伊能図」の持ち出しが発覚し、国外追放を命じられるが、ひそかに地図の写しを持ち出すことに成功していた。また、その資料を基に『日本』を刊行し、西洋に日本の全容が広まるきっかけとなった。アメリカ東インド艦隊司令長官のペリー提督は『日本』に収録された「伊能図」をはじめとする資料を参照して日本への航海に臨み、1853年に浦賀に来航、翌年に日本の開国を果たした。「鎖国」体制が崩れた幕府の後を受けて新たに誕生した明治政府は、欧米諸国にならい「近代化」を進めていった。近代に入ると、地図の利用範囲は、海防の強化・国土の把握・国民の地理的知識の向上へと広がっていくことになる。実測に基づいた「伊能図」は明治時代に入ってもなお活用され、日本の「近代化」に重要な役割を果たすことになった。本章では、「伊能図」ができるまでの過程と、「伊能図」が海外に流出したことで開国につながり、日本の「近代化」に向かっていく過程を、その歴史を映し出す「地図」とともに紹介する。
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社会変容と地図の進化
明治時代になると、近代化を目指す新政府は、国土の把握を急ぐため、それまで国家機密であった「伊能図」を広く活用するようになっていく。その目的は、都市計画の推進や、土地制度の改革、あるいは国防・海防など多岐にわたるが、この時期に明治政府が発行する地形図や海図は、「伊能図」を基にして製作されていたのである。その一方で、国が製作した地図に加え、次第に民間の製作者による地図も数多く登場するようになる。例えば、観光客向けの観光案内図や、鉄道利用者向けの鉄道路線図、街中の商店や会社名が掲載された商工地図などである。これらは、特定の利用者・利用目的に合わせた情報が詳しく描かれた「主題図」と呼ばれる地図で、今日私たちが日常生活で目にする地図の多くを占める。太平洋戦争までは、法律により地図の発行が制限されていた地域もあったが、戦後はその制限も解除され、復興や高度経済成長によって、地図はさらなる多様化の時代を迎える。自動車の普及によって登場した「道路地図」や、居住者名や建物名称を記した「住宅地図」、災害に備えるための「ハザードマップ」などは、時代の流れに応じて誕生した地図たちのほんの一例である。そして、現代ではITの発展により地図はデジタル化され、GPSやカーナビなどの正確な位置情報が普及したことで、地図上に現在地をリアルタイムで表示することも可能になった。今後、地図にはどんな新しい価値が見出せるだろうか。
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