ゼンリン陸上競技部 創部30周年を記念して、OB・現役選手のスペシャル対談をおこないました。
第1弾は、畑山茂雄さん(1999年入部)と知念豪さん(2014年入部)のお二人の対談です。同じ円盤投げで師弟関係にあった二人に、当時の思い出を振り返っていただきました。現役時代のエピソードだけでなく、畑山さんには引退してから現在に至るまでの思いを、先日引退を発表したばかりの知念さんには自身が目指す「これからのゼンリン陸上競技部」についての思いを語っていただいています。

二人の出会い

――まずは畑山さんと知念さんが最初に出会った頃の話を聞かせてください。
畑山:

私が記憶しているのは、当時、円盤投げの陸連合宿を熊谷でしていた時に、ハンマー投げの野口くん(当時:群馬綜合ガード所属)から「知念が一緒に練習したいと言っている」と話があった。それが一番最初かなあ・・・?

知念:

いや、その前に会っていますね。私には一つ上の兄がいて、兄を追って高校から陸上をやり始めたんですけど、最初は父の勧めでハンマー投げをやっていました。それで高校2年の時に九州共立大へ合宿に行って、そこにたまたま畑山さんがいた。畑山さんのことは、当時から陸上競技マガジンを読んでいたのでもちろん知っていました。

畑山:

その時、同じ場所にいたんだっていうのは、後々知った。

知念:

そこで畑山さんの投げを初めて見て、「物ってこんなに遠くに飛ぶんだ」って衝撃を受けたんですよ。
その後、大学に進学して、大学1年の冬でしたかね?次に出会ったのは。

畑山:

どうだったっけ?

知念:

大学1年の時に全く結果を残せなかったので、このままだと腐ると思って。何かを変えたくて、「畑山さんと一緒に練習したい」と、当時順天堂大を練習拠点にしていた野口さんにお願いして、畑山さんとアポをとってもらいました。そしたら「熊谷で合宿していて明日投げるから一緒に投げようよ」と返事を頂き、翌日一緒に練習できることになりました。

――それが、畑山さんの記憶に残っている最初の出会いの陸連合宿だったんですね。学生時代に、社会人の第一線で活躍されている選手と一緒に練習したいと思ったことがすごいですね。
知念:

早く強くなりたくて、最短の道を考えたらそういう選択になりました。今考えたら生意気ですよね(笑)

畑山:

当時、陸連合宿は定期的に開催されていて、私は年齢も上のほうだったので、後輩から練習を「こうしましょう、ああしましょう」といろいろ提案されて新鮮だったのもあり、半ばコーチ的な感覚もありながら参加していました。そういう意味では(知念と一緒に練習することになったのも)普通の感覚でした。

知念:

それこそ繋いでくれた野口さんがいなかったら、腐って今頃沖縄で農家になっていたかもしれないです。そのぐらい重要な出来事だったかもしれないです。大学1年の時にその一日だけ熊谷で一緒に練習して、大学2年の時に記録が少し伸びて、最初の合宿から一年後くらいに試合でジュニア日本記録(当時)を投げて。その年の熊谷合宿にまた参加した時に、「おめでとう」と言われたのを覚えています。そこでまた一緒に練習をして親交が深まった。

畑山:

たぶんそうだったと思う。

知念:

大学2年の冬、2月~3月頃に畑山さんと練習する機会が増えて、大学3年のシーズンが開けると記録が3mぐらい伸びた。このままいったら強くなるなと感じたんです。大学3年からは日本選手権も入賞し始めて。その頃は月に一回ぐらい、(順天堂大学がある)千葉の酒々井から横浜の日体大まで通っていましたね。

――もうその頃から、「コーチと教え子」のような関係だったのでしょうか?
畑山・知念:

まだですね。

写真:沖縄での実業団合宿(2015年2月撮影)

師弟関係になったきっかけ

畑山:

2012年当時(知念大学3年時)はまだ大人しい感じのイメージだったので、いろんな方に会わせました。

知念:

いろんな人に会いました。いろんな実業団チームの選手やスタッフの方など、当時の自分にとっては異世界のところへ紹介していただけました。

畑山:

その頃から人間的なものを成長させればもっと競技にもプラスになるんじゃないかと考えていたので、いろんな方に会っていろんな話を聞いて・・・、というところで師弟関係とか抜きにして「プラスになればいい」と思ってましたね。大学4年になった時に、知念の今後を考えて。私は競技者として長く一人だったので。次の世代のことを考えた時に、当時は堤くんが一人だったので、その状況は円盤界においては良くないと思って。知念と堤くんとが争いあって相乗効果で円盤界が強くなれば良いと考えていました。
とにかく一人で競技を続けることはすごく辛いことだと分かっていたので、堤くんと知念が競い続けることで、自ずと結果が見えてくるのかなと思った。とにかく堤くんにライバルを作る意味で。そこから師弟関係が始まったような気がします。

知念:

それが大学4年の時ですね。

畑山:

その時点では、知念がゼンリンに入るかどうかも何も決まっていなくて。ゼンリンに入ることが決まったのは大学4年の最後のほうだったのでね。

知念:

その頃は進路も決まっていなかったので、大学院へ進学することも考えていました。選手を続けるかどうかは深く考えていなくノープランでした。最終的にゼンリンに入ることが決まって、大学院進学の道と並行して練習も続けていたので、良かったなと思いました。その翌月に自己新も出ましたし(笑)。今から考えると、ゼンリンに入る前の大学4年時から師弟関係になっていたのかもしれないです。

畑山:

その当時のゼンリンの状況は、藤光くんが活躍し始めたところで、新たな部員を採るという雰囲気が無かった感じがしていました。でもそれだと円盤界が盛り上がらないなという感じはしていたので、知念の入部について会社に相談して・・・。

――畑山さん自身も、ゼンリンに入部したきっかけは野沢具隆さん(1990年入部、円盤投・砲丸投)の存在が大きかったですよね。
畑山:

そうですね。野沢さんとも当時、陸連合宿で似たような感じで接点を持って。野沢さんが当時の私の円盤投げを見て、「日本人でこういう投げをする人はいない、これは化ける」と言ってくれました。それで「卒業後はどうするの?」ということで。当時、世界大会の参加標準記録が60mでした。練習では57~8m飛んでいたので、目標は「世界大会に出たい」という思いがあることを伝えて。それで「よし分かった」と野沢さんが会社に掛け合ってくれて、入部できたような流れです。

写真:第99回日本陸上競技選手権大会(2015年6月撮影)

畑山さんの現役時代の思い出

――畑山さんが在籍していた当時の陸上競技部での思い出・エピソードを教えてください。
畑山:

当時は週1回必ず出社がありました。陸上競技部は東京事務所の中にあったので、そこで制作の仕事をしていました。みんなで地図を広げて広告制作の作業をしていた。なので、陸上競技部のメンバーとは定期的に顔は合わせていました。
それに当時は、練習拠点が東海大と日体大の2つしかなかったので、オフ期になればこのどちらかで集まって週1回練習したりもしていました。当時、東海大の出身が、野沢さん、安西さん(1994年入部、三段跳)、菅間さん(1995年入部、十種競技)、北村さん(1998年入部、110mH)。日体大が、米倉さん(1993年入部、棒高跳)、窪田さん(1995年入部、短距離)、海老沢さん(1998年入部、短距離)。なので、選手同士は定期的に会っていましたね。

――当時は週1出社でフルタイム勤務していたんですね。現在は、選手たちは月1出社くらいで、陸上競技以外の業務はおこなっていません。
畑山:

週1で出社して仕事をしていたのも、それが当たり前だと思っていたので、楽しくやっていた気がします。普段は競技に打ち込んでいるけど、出社した時には競技を忘れて和気あいあいとしゃべりながら作業するような。

――出社して仕事もされていたら、当時は周りの社員とのコミュニケーションもたくさんありましたか?
畑山:

そこがどうかと言われると、一緒に制作を担当されている方とはよく話しましたが、基本的には選手同士での会話が中心という感じです。社員の方との繋がりがたくさんあったかかと言われると、そこまで無かった気がします・・・。

知念:

今、自分も陸上競技部の課題は何か?って考えていて、選手と社員の関わる機会がもっとあったほうが良いのではないかなと。選手と社員の距離があるように感じるんですよ。

畑山:

もしかしたら私たち選手側にもその要因はあったかもしれない。競技者として一つの目標に向かって集中している感じが、とっつきにくさを生んでいた、ということがあったかもしれない。

知念:

引退して会社の中に入って、競技者としての考え方と、会社員としての考え方の間でジレンマが自分の中であります。

畑山:

私たちに課されていたものは、「結果」だと思ってやっていたので、結果を出すことで「私もああいう風になりたい」と思ってもらうことが、社員との「関わり」だという認識もできる。例えば社員を対象にした陸上教室を行ったりもしましたが、それが果たして本来求められていることなのか?というのもあります。

知念:

直接的に関るというよりも、結果を出すことで間接的に関る、良い意味での影響を与える、という考え方ですか。

畑山:

そうですね。

――当時の陸上競技部のメンバーで、畑山さんが印象に残っている先輩のエピソードはありますか?
畑山:

窪田さんの練習に対する姿勢はストイックだなとずっと感じていました。走って倒れるのはイメージがつくのですが、ウエイトトレーニングをして倒れていたので。実業団はすごいところだなと思いましたね。野沢さんと練習をした時も、一回の練習の中で技術的な試行錯誤を何回もしながら投げていて、技術に対しての集中力がすごかった。あとは皆さん、競技場の中と外でのスイッチのオンオフが参考になりました。米倉さんと窪田さんが酒の席で競技に関する熱い話をしてよく喧嘩していましたね。グラウンド内ではあまり話さないけど、グラウンドの外で熱い想いを語っていた。

写真:試合後の営業所訪問(2016年6月撮影)

一人で陸上競技部を支えていた時代

――畑山さんが陸上競技部に入部された当時は、まだ部員も大人数(当時は8人)いる時代でしたよね。でもその後10年ほど、一人時代が続きました。
畑山:

私が入社した次の年から就職氷河期と言われていた気がします。陸上競技部が、というよりも会社全体としても新卒入社がすごく少なくなった時期でした。世間的にも、当時(2000年代)、陸上部が廃部になったチームがたくさんあった気がするんですよ。陸上部に入りたくても入れない、もう強い選手でも入れない、そんな時期だった気がします。
自分自身も、とにかく一人は一人で突き進むしかなかったので、そこからは日本国内より海外・・・アメリカ、中国、ドイツといった海外に視野を向けるようになりました。自分がもっと飛ばせるようになるにはどうしたらいいのか?ってことで。部員が何人もいると、結果が出てる人と出てない人とでどうしても比較が出てくるので、そういった他者との比較が無い分、逆にやりやすかったです。一人は一人で寂しさもありますけど、自分の思い通りにできたという点はあります。ただやっぱりOBの方たちと会ったりする時には、一緒に8名でやっていた頃の先輩たちからは、「廃部にするなよ」と言われてましたね。でもそれより上の先輩たちからは「絶対潰れるよ」とも言われてました。

――「自分がやめたら陸上競技部がつぶれる」というプレッシャーみたいなものはあったのでしょうか?
畑山:

プレッシャーはありましたよ。けど別に(部を)潰さないためにやっているわけでもないなっていうのがあったので。何度もやめたいと思うことはありましたよ。なんかその・・・会社のあれとかじゃなくて自分自身の。

――やめたいと思ったのはどういう時ですか?
畑山:

一度目は、2002年に。韓国のアジア大会で9位になって入賞を逃して・・・。試合後、当時陸連の投擲部長をされていた日大の小山先生に挨拶に行ったんですが、私が何か言うより前に、「お前引退考えただろ?」と言われて。「ああ、そうです・・・」と。それで「お前が投擲を引っ張っていかないでどうするんだ」とお声掛けいただきまして。その時はまだ自分が引っ張っていくといった考えが無かったので、それを機にまた気持ちを入れ替えて。あとは2009年あたり、日本選手権で小林くん(当時、新潟日報社所属)に負けた時ですかね。もういいかな・・・って。2007年の世界陸上にも出られたので。

――それでも、その後も続けてきたのは・・・?
畑山:

やはり日本記録を投げたかった。30歳を越えてからはそれしかなかった。日本記録を投げてやろうとしか。

写真:第64回全日本実業団対抗陸上競技選手権大会(2016年9月、フォート・キシモト撮影)

<プロフィール>

畑山 茂雄

1999年入部。種目は円盤投。2007年に当時日本歴代2位となる60m10を記録、28年ぶりに60m越えの記録をマーク。2007年世界陸上(大阪)出場、日本選手権優勝10回(うち、1999年~2005年7連覇)、全日本実業団13連覇(2000年~2012年)など、長年にわたり円盤投のトップを牽引してきた。2016年に引退し、現在は日本体育大学で陸上競技部投擲コーチとして学生の指導にあたる。

知念 豪

2014年入部。種目は円盤投(ハンマー投も少々)。2016年の日本選手権では円盤投58m36で2位、日本歴代6位の記録を残す。2020年11月に引退を発表、現在はゼンリン陸上競技部の監督見習いとして奮闘中。

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