ゼンリン陸上競技部 創部30周年を記念して、OB・現役選手のスペシャル対談をおこないました。
第2弾は、金子公宏さん(1992年入部)と高山峻野選手(2017年入部)です。途中、藤森菜那選手(2020年入部)も加わり、笑いのたえない和やかな対談となりました。
金子さんは引退後、教員の道へ。そして現在、高山選手と藤森選手のコーチをされています。金子さんの現役時代のエピソード、二人のコーチになった経緯、高山選手から金子さんに聞いてみたかったこと、など、普段はあまり話題にしないことを中心に語っていただきました。

金子さんの現役時代の思い出

――まずは、金子さんが陸上競技部に在籍されていた頃のお話から。ゼンリンに入ったきっかけは・・・?
金子:

大学4年のシーズンが終わった時、ちょうどゼンリン陸上競技部が前年に発足したタイミングだったんですけども・・・、当時は川田さんという監督さんがいらっしゃって、その監督さんがハードルをやっていたということもあって、お声がけいただきました。
最初は(卒業後も)やるかどうか迷っていたんですけど、良い話を頂いたので頑張ってみようかなと思ったのがきっかけです。

――当時は部員数も多かったですよね。先輩後輩とのエピソードや思い出などあれば教えてください。
金子:

大人数といっても、だいたい自分の母校で練習することが多くて。皆さんバラバラでめったに会うことは無かったです。たまに試合とか、東京支社に出社した時に会うくらいでした。それこそ変な上下関係もなく、お互い尊重して個々でしっかり頑張ってるなという印象でしたね。
 

写真:金子さんの現役時代(1995年撮影)

――金子さんは現役時代、松戸営業所の配属でしたっけ?
金子:

はい、松戸営業所です。週1回、フルタイムで勤務していました。作戦とか配本(※)とかやってましたよ。週1で来る我々用にと担当エリアを端から端まで取ってありました。本当に端から端まで(笑)なので1日200㎞くらい運転してましたね。

一定期間、ある地域で住宅地図帳の集中営業をかけることを「作戦」、住宅地図帳をお客様にお届けする仕事を「配本」と呼んでいます。

――陸上部用にしっかり仕事が用意されていたんですね。
金子:

当時、松戸営業所には山本厚くん(1993年入部、400mH)もいて。私と山本くんの二人が筑波大を拠点にやっていたので。
あとは橋岡直美さん(1994年入部、三段跳ほか)が水戸営業所に行っていました。水戸営業所には一度、会社の飲み会で行ったことがあります。

――当時はそれぞれ練習拠点の近くの営業所に勤務されていたんですね。畑山さん(1999年入部、円盤投)の時代は全員東京事務所に勤務していたと聞きました。
金子:

ひょっとしたら他の練習拠点の人たちは皆、東京支社勤務だったのかもしれません。我々だけ松戸営業所だったのかもしれないです(笑)
たまに本社や東京支社に行く時もあったので、その時は他の皆にも会っていましたね。普段は全員で集まることはあんまりなかったです。仕事始めとかくらい。みんなで忘年会やろうとかもほぼ無かったと思いますし。
その代わり、当時は社員旅行があったんですよね。陸上競技部は総務部に所属していたので、総務の人たちと陸上部のメンバーで、年に1回、冬に一泊二日で。それが一番の思い出ですね。
 

――松戸営業所の社員の方たちは、当時試合の応援にも来てくれましたか?
金子:

はい。水戸国際という試合があったんですけども、私が勤務していた松戸営業所の所長が、その試合を見に来られてて。たまたま優勝したんですよね。そしたら所長が喜んでくれて。嬉しかったですね。
 

――高山選手は、金子さんたちの当時の仕事のことなど聞いてみて、どうですか?
高山:

僕のイメージですけど、週に1回とかちょこちょこきて仕事するってなると、逆に邪魔じゃないかな・・・という感じがあるんですけど・・・。金子先生は週1でフルで仕事されていたってことですけど、それって両立できるもんですか?

金子:

両立というか・・・。例えば週1行くとしたら、(練習が休みの)レストの日じゃない。当然、疲れるんだけど、一方で週1でもフルで仕事やってると、後々引退して会社に残った時にほぼ問題なくいられるっていうのはある。
ただ、今とはまた世間の雰囲気というか、アスリートを取り巻く環境も違うので。当時でいうと、まだそれでも優遇してもらってた方じゃないのかな。
東京支社に勤務していた選手は内勤ばかりでしたけど、私は営業とか外回りが多かったので。それはそれで苦でもなく、楽しくやってました。

写真:試合後の集合写真、真ん中が金子さん(1995年撮影)

引退後、指導者の道へ

――先ほど、引退後のことも考えたら・・・という話がありましたが、金子さんは現役時代、引退後の進路についてどのように考えていましたか?
金子:

ひとつは教員になろうと思っていたんですけれど・・・。でも競技を引退してそのまますぐ教員になるのも・・・何か足りないなと思って。それで私は引退してから大学院に行ったんですよね。もう一回学び直そう、じゃないですけど。

――学び直して考えたときに、やはり教員になろう、と?
金子:

一番現実的な進路としたらそうなっちゃうので。そこまで行って一般企業に入るのも・・・。
ちょうど1998年頃で、バブルが弾けて一番景気が悪い時だったので。それこそ教員にもなかなかなれない時期だったので、しばらくフラフラしてましたね。
プー太郎やったり、地方の大学で期限付きで2年間やったり、いくつかの大学で非常勤生活を2年やって、今の明治大学に入ったのは2003年なので5年間くらいはフラフラしていました。

――教員になって、いま目指していることや、「この先こうしたい」といった思いはありますか?
金子:

今は特に何もないです。欲がなくて。高山・藤森の二人が頑張ってくれれば良いですし、二人が引退すれば私も引退してもいいし。・・・まあ学校の仕事もあるので、そちらに専念するというか、与えられたことをやるのみですね。

――陸上に関してはコーチをすることで高山・藤森の二人に託しているというかんじですか?
金子:

託しているというか・・・先々分からないですよね、ふたりとも。「もう先生、嫌です」と言われるかもしれないし。

高山:

(笑)

藤森:

言わないですよ(笑)

金子:

そしたら私は、いち教員に戻ってやればいいし、彼らがやりたいようにやれれば十分です。そのサポートができれば。

――金子さんは、コーチとして選手と向き合う上で、心掛けていることはありますか?
金子:

心掛けているってことじゃないですけど、やっぱり「待つこと」ですよね。急かさず。それで上手くいかない人もいるかもしれないけども。

――どの選手に対しても、指導するときには「待つ」姿勢で?
金子:

基本的にはそうですね。競技に向き合えなかった時とか、伸びなかった時とかも含めて。こちらからいろいろ提供することはできるんですけど、提供しすぎず。
上手く指導したつもりでも変わらない時もあるじゃないですか。そういった時も怒らずと言いますか、見守るというか。「待つこと」ですかね。選手の側から何か求めてきたり、変わるまで待ちます。

写真:動画を確認しながらトレーニングを進める金子さんと高山選手(2020年12月撮影)

高山選手と藤森選手のコーチになったきっかけ

――高山選手との最初の出会いは、高山選手が高校3年の時に金子さんがスカウトに来てくれたことがきっかけ、と聞いていますが・・・?
金子:

そうです、高山くんが高3の春の段階で、とても良い記録を出していたんです。それで1度会ってみたいな、ということで高校の先生に連絡したところ、会えることになって。ちょうど地区大会が終わって、世界ジュニアに行く前だったと思うんですけど、それが最初ですよね。

――その時はどんな印象だったんですか?
金子:

その日は地元のメディアのインタビュー取材がありまして。それにも淡々と答えていたというか。練習も実際に見てみて、やっぱりハードリングが上手だなというのと、人として好青年というかんじでしたね、印象は。

――高山選手はどうでしたか?その時のことは憶えていますか?
高山:

高校の先生から「すごい先生が来るぞ」ということを聞かされてから、ずっとビクビクしてて。実際に会って、たぶん挨拶ぐらいしかしてないんですけど、「ちょっと怖いな」という感じでした(笑)

金子:

そのあともいくつかレースも見たんですけど、高山くんはスタートで出てアドバンテージが取れると自分のレースができる、逆にスタートでアドバンテージが取れないと自分のレースが組み立てられない、という風にレースパターンがはっきりしていたんですよ。
だから私の考えとして、当時、明治にひとり、とてもスタートの速いハードルの選手がいたので、その選手と一緒に練習をやれるといいんじゃないのかな、と思っていましたね。
ただ、普段は、高山くんくらいのレベルの選手は明治には来てくれないので・・・。ダメ元でスカウトに行ってたんですけど。よく来てくれたな、というのが本音です。

――藤森選手の場合は、金子さんに教わるようになったきっかけは?
金子:

藤森さんの場合は、私が(浜松市立)高校時代の杉井先生をよく知っていたというのもあるけど、まず高校時代、めちゃくちゃ強かったんだよね。なので当時は勧誘するつもりもなくて、いつも杉井先生から話を聞くくらいだったんだけども。
ちょうど高校3年の時に怪我をしちゃったんだよね。で、まぁ「変わった子」だというのも知っていたので・・・(笑)

全員:

(笑)

金子:

怪我をして走れなくなって、大きな組織のあるような大学へ行くと、彼女のそういう「個性」がうまく活かされないかなと思ったんですよね。だったら、明治に来るのもいいのかなとは思ったんだけど。
ただ、高山くん同様、最初は来てくれるとは思っていないので。そんな中で杉井先生にちょっと話をしてみて。
彼女は怪我無く順調に活躍していたら、明治には誘ってなかったですね。

写真:第68回全日本実業団対抗陸上競技選手権大会(2020年9月、 フォート・キシモト撮影)

高山選手の大学時代のエピソード

――入学後、最初の数年は遠慮して高山選手からコーチの金子さんにいろいろ話しかけたりできなかったそうですが?
高山:

先生は雲の上の存在なので・・・。

金子:

そんなことないですよ(笑)

高山:

大学に入学して、先輩から金子先生は日本記録保持者だったんだというのを聞いて、雲の上の存在に感じて。大学2年くらいまでは自分から積極的に先生に何かを聞いたりすることはなかったですね。出されたメニューをやって・・・という感じでした。

――大学2年の頃に、なかなか結果が出なくて「これじゃだめだ」と思って先生と一対一で話し合った、と聞きました。
高山:

焼肉行きましたよね?

金子:

行ったっけ?どこ行った?

高山:

その時は確か・・・叙々苑・・・?

金子:

いや叙々苑は違うよ、別の時だよ。

高山:

あれ、違うか。僕も記憶が曖昧ですけど・・・。
どこかは忘れたけど焼肉を食べに行って、相談というか、今後どうしたらいいか?という話を。

金子:

・・・したのかもしれません。

――その時、金子さんはどういう風に思いました?
金子:

その時のことは本当にちょっと覚えていないんですけど・・・(笑)
でも正直言ってそれまで、力はあっても表現下手と言いますか。照れ屋というのかな・・・。
一つ覚えているのは、大学1年の時の日本ジュニアという試合があって、それまでに結構良い記録を出していたので楽しみにしていたんですけど・・・。当日とても寒くて、雨だったんですけど、高山は半袖半ズボンしか持ってきていなくて。

全員:

えー(笑)

金子:

準決勝で落ちちゃったんですよね。昔から荷物少ない系だったんでしょうね(笑)
そういうこともあったりして、まぁ、悪いとは言わないですけど、その辺の競技に対する取り組みや考え方が、その頃(焼肉屋で話をした頃)から変わったんじゃないですかね。確かにそれからは、しっかりやれるようになりましたね。

高山:

そうですね。その頃をきっかけに変わりましたね。

――当時から荷物は少ない派だったんですね。
高山:

少ないです。いつもバッグ一個です。こだわりというか、単純に持つのが嫌で。軽いほうが良いなと。

金子:

一方でね、一泊二日なのにスーツケースで来る人もいるしね(笑)

藤森:

(笑)

写真:第104回日本陸上競技選手権大会(2020年10月、 フォート・キシモト撮影)

<プロフィール>

金子 公宏

1992年入部。種目は110mハードル。学生時代、手動計で当時の日本記録(13秒9)を出したことがある。1996年に引退し、現在は明治大学の准教授であり、高山選手と藤森選手の専任コーチも務める。

高山 峻野

2017年入部。種目は110mハードル。日本選手権は2015年・2017年・2019年と3度の優勝経験あり。2018年にはアジア大会で銅メダルを獲得。2019年に日本記録(13秒25)を更新し、世界陸上では準決勝に進出。

藤森 菜那

2020年入部。種目は100mハードル。学生時代は関東インカレ優勝、学生個人選手権優勝などの成績をおさめる。社会人1年目の2020年は日本選手権で3位、自己ベストも更新した。今後の活躍が楽しみな選手。

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