ゼンリン陸上競技部 創部30周年を記念して、OB・現役選手のスペシャル対談をおこないました。
第3弾は、現在も当社で働く4名のOB、野沢具隆さん(1990年入部)、松井仁さん(1991年入部)、安西啓さん(1994年入部)、窪田慎さん(1995年入部)で座談会をおこないました。
活動時期も種目もバラバラの皆さん、実は全員でこうして話をするのは初めてということでした。現役当時の思い出から、引退して働き始めた頃のエピソードなどを中心に、語っていただきました。

現役時代を振り返って

――陸上競技部が30周年を迎えたということで、OBの皆さんにもいろんな話をお聞きしたいと思っております。皆さん、こうやって集まってお話しするのは初めてですか?
野沢:

個別にはありますけど、集まるのは初めてですね。

窪田:

当時も一緒に練習することもなかったし、試合でしか会わないし。

――ではまずは、皆さんが陸上を始めたきっかけから、あらためてお聞かせください。
野沢:

陸上を始めたのは中学校1年生からです。友達と「どこ入ろうか?」と、ジャンケンかクジをして陸上部に決めた覚えがあります。

全員:

えー?(笑)

野沢:

ちょうど陸上競技同好会を作るというので勧誘していたので、それに乗って同好会として発足しました。
最初は走り幅跳びとかをやっていたんですけど、市民大会のエントリー枠の都合で、幅跳びは他の人に回してあげて。じゃあ空いているのが砲丸投げだな、ということでその時初めて砲丸投げをやったのを覚えています。
初めて投げた時は6mぐらいだったかな。そこから急にハマりまして。中学2年の時に市民大会で優勝できて、そこから火がついてのめり込みました。
なんか知らないですけど、中学2年の時に「俺は日本記録を出す」というのを言いふらしていました。

全員:

おー!

野沢:

いや、それは単に大口叩いてるんじゃなくて、何の根拠もない自信があったんです。それを30歳手前で証明できて良かったなと思います。

窪田:

その時から(身長)2mあったんですか?

野沢:

ないよ(笑)

松井:

細かったですよね?

野沢:

細かったですよ。その時もガリガリで。
冬は長距離もやってるし、何でもやっていたんですけど・・・足が速い子って生まれつき速い子とかいるけど・・・窪田くんみたいにね。
でも砲丸投げっていうのは、スタートはみんな一緒で、やればやるだけ伸びる、誰でも可能性がある、そんなところが面白いなと。だから特に運動神経が良いわけではないけど、人より努力したら勝てるのは、これだと。

写真:第44回全日本実業団対抗陸上競技選手権大会で17m91の日本新記録を出した野沢さん(1996年撮影)

松井:

僕は一番陸上経験が短いんですよ。僕、高校の時やってないんです、お遊びで試合に出たくらいで。本格的にやったのは大学からなんですよ。
きっかけは、もともと筋トレが好きだったので、市の体育館に筋トレをしに行ってたら、周りに投擲の選手がたくさんいたんですよ。それで肩がもともと強かったこともあって、必然的にやり投げをやるような雰囲気になってきて。大学に行って、じゃあ本格的にやってみるかとなって、始めました。
だから大学の時、僕は一般入学で入ったんですよ。同期にはやり投げのインターハイチャンピオンがいまして・・・すごい差ですよね。その中で一緒にやってきたら、徐々に力もついてきて。3年~4年ぐらいでインカレに出られるようになって、そこそこ記録を残せるようになってきました。

――高校までは何かスポーツをされていたんですか?
松井:

中学までは野球をやっていたんですけど、高校はあんまりやらなかったですね。体を鍛えるのが好きだったので、筋トレだけはやっていて。
高校3年の時、お遊びで試合に出たら、県大会2位で北信越までは行けたので、本格的にやってみようかなという感じでしたね。

――始めた時からやり投げだったんですか?
松井:

やり投げですね。当時、国士舘大学ってね、「やり拾い」っていうのがあったんです。1年生は実力がない人は野球部の球拾いと一緒で、先輩が投げた槍を取りにいかないといけないんですよ。それを取ってダーッと走って先輩の前に持っていくという。

全員:

(笑)

松井:

やり拾いから始めましたね。そんな感じです。

写真:第41回全日本実業団対抗陸上競技選手権大会での松井さん(1993年撮影)

安西:

私が陸上を始めたのは、はっきり言うと消去法ですね。
子供の頃、みんなと同じように少年野球やったりサッカーやったりはしたんですけど。少年野球は10人しかいないチームで補欠だったんですよね。一人だけ監督の横に座っているような感じで。チームスポーツは自分のミスが結果に繋がってしまうのが耐えられなくて、個人競技がいいなと思って。けど水泳は溺れると嫌だし・・・というのがあって中学2年から陸上部に入りました。
高校では違うことやろうかなとも思ったけど、入学式の日、どこからも何も勧誘されずに門まで出てきちゃったんで、じゃあ、陸上やろうかと。その後も泣かず飛ばずだったんですけど、高校2年の時に、授業で三段跳びがあって。競技人口も少ないし、他のより良いかな、と思ってやり始めたのが三段跳びとの出会いですね。
運よく3年の時にインターハイまで行けて。60何人のうち下から2番でしたけども。でも楽しかったので大学行っても陸上やりたいなと思ったので、一般受験で東海大に入って、自分で陸上部に入っていきました。
そしたら、先生が世界大会に三段跳びで出た方だったんです。それなりの部なのに、あまりに何も出来なさ過ぎて、それが逆に目について、「お前ちょっと来い」と言われて。中学生に教えるようなレベルから、ずっと横について教えて下さいました。そしたら、それしか知らないもんだから、同じ動きができるようになって、急激に記録がついてきたんです。

松井:

その話、前にも聞いたことがあってさ。安西ってインカレチャンピオンだから、てっきり特待で入ってきてると思ったら全然違ったんだってね。それビックリだったんだよ。

安西:

体育学部の試験受けるのも、幅跳びが跳べなかったので100mで受けて。

全員:

跳べなかった?(笑)

安西:

いや本当に。下手すぎて。受かって良かったですよ。

松井:

でも安西って、陸上マガジンかなんかに、たぶんインカレで優勝した時の泣いたシーンか何かで写真載ってなかった?俺もあの時、インカレで入賞していたからその雑誌の写真がすごい印象に残ってる。で、安西が入社してきた時に、「あーあれが安西か」と。その印象がある。

安西:

まさかそんなインカレで優勝できるような結果に至るとは・・・思ってもいないようなレベルから始まったので。4年の時に優勝しました。

野沢:

1年生でいきなり15m50だっけ?

安西:

15m59でしたね。

野沢:

跳んだんですよ。しかも1年生入ってすぐ。ちょうどその時、俺が4年?

安西:

そうですね。

野沢:

「誰だ?あれ」っていうので、すごいザワザワして。なんか知らないやつが入ってきていきなり。

窪田:

すごいですよね、インターハイで下から2番だった人が、大学入っていきなり15m59って。

安西:

高校のベストが14m37だったので。

松井:

すごい、いきなり1m以上伸びたんだ。

写真:現役時代の安西さん(1998年撮影)

――窪田さんはどうですか?
窪田:

私はですね、信じられないと思いますけど、体が弱くて喘息もちで。水泳やっても治らなくて、声を出せと言われて剣道やっても治らなくて、野球やっても治らなくて。走っとけと言われて陸上部に中学1年の時に入ったのがきっかけですね。喘息を治すために陸上部に入りました。
足はそんなに速くなかったから、種目も100mとか短距離には回されなくて、走り高跳びをやっていたんですね。バネがあったのか、たまたまなのか、走り高跳びは跳べたので。

安西:

90ぐらい?

窪田:

96ですね。身長が1m60ちょっとしかなかったんですけど、1m96跳んで九州大会で優勝したんですよ。それで高校行っても高跳びするんだろうなと思っていたら、高校行ったら「お前は幅跳びだ」ということで、高校の時はずっと幅跳びを。
大学も幅跳びで入ったんですよね。だから100mやってない。で、大学1年生の時に、安西大先輩と関東インカレで戦って。

安西:

俺4番。

窪田:

私7番かな。走り幅跳びでインカレで戦ってるんですよ。

――ゼンリンに入社したきっかけは?
窪田:

私、結局1年生で幅跳びを引退したんですよ、腰が痛くて。で、トラックで目立ちたいなと思って、短距離に転向して。でも100mなんて全く通用しないから、ちょっと頑張れる200mと400mにしたんですよね。それなりにインカレ選手になれるぐらいのレベルになったんですけど。大学4年の関東インカレの時に、「思い出に100m出るか」と先生に言われて100m出たら優勝しちゃったんですよ。
優勝するなんて思ってもいなかったし、陸上は引退するつもりで就職活動もしていたし。ゼンリンと他に2社ほどお話いただいて、一番条件が良かったのがゼンリンだったんですね。週1出社っていうのが一番良くて。他の1社は、午前中出社だったので嫌だったんですね。もう1社は、出社はしなくていいけど歩合制で給料がすごい安くて、結果が出たらすごいお金が貰えるみたいな。まぐれで優勝したようなもんなのに、そんなに長続きするわけないと思ってて。それでゼンリンに入ってきました。
で、ゼンリンに入ってきたらスーパースターたちばっかりで。劣等感しかなかったです。

写真:現役時代の窪田さん(1995年撮影)

松井:

窪田の劣等感はまだいいよ。俺は入った時は山内さん(1990年入部、短距離)とか小中冨さん(1990年入部、短距離)とかさ、世界大会の出場選手が周りにいるんだよ。投擲は野沢さんとか天野さん(1990年入部、やり投)とか・・・なんだこの世界は?って感じだった。高橋巧さん(1990年入部、棒高跳)とかもさ。でかいし、みんな。

――当時のゼンリン陸上競技部は、「強いチーム」だったんですね。
松井:

そうそう。もともと前身の日健が全日本実業団で5連覇でしたっけ。

野沢:

日健時代とゼンリンとで、全部で9連覇くらいしてるはず。

松井:

そのメンバーがごそっとゼンリンに来たわけなので。山内さんとかソウル五輪に出てる選手だしさ。
俺はゼンリンとしての陸上部新入社員第1号なの。野沢さんたちは移籍で入ってるから。

野沢:

私が日健に入って2年目の夏に解散宣言をされまして。ちょうど岩手の盛岡で合宿している時でしたね。会社の人が来て「解散です」と。

安西:

合宿中ですか(笑)

窪田:

なかなかしびれますね。

野沢:

しびれましたね。でも自分はまだ若かったし生活も背負ってないので、恐怖感とかもなく。ちょうどバブルが弾けたのと一緒ですから。
それで、全員一緒にゼンリンに行くとなって。当時はゼンリンって全く知名度もないので、なんだか分からなかったけど。入ってみたらすごい良い会社で(笑)ちゃんとお給料が出て、ちゃんと社宅があって。私は救われました。

安西:

私は、東海大で練習していた2つ上の先輩に住谷さん(1990年入部、走幅跳)がいて。「卒業したらどうするんだ」という話になって、「続けたいと思っています」という話をしたら、「うち来るか」と声をかけてもらいました。

写真:創部1年目、第39回全日本実業団対抗陸上競技選手権大会で総合優勝を飾る(1991年撮影)

当時のチームの雰囲気、出社時のエピソード

――当時の先輩後輩とのエピソードや、出社時のエピソードなどを教えてください。
窪田:

面白い話はいっぱいあるんですけど。

安西:

記事にはできない話が多いよね(笑)

窪田:

(畑山)茂雄(1999年入部、円盤投)の対談記事で、私と米倉さん(1993年入部、棒高跳)が喧嘩していたとか書いていたんですけど、やっぱり練習に対する考え方が種目によって全然違うんですよ。人が合図して走る種目と、自分から6回チャンスがある種目と。なので意見が合わないのは当然なんですよね。
そんな感じで、夜、飲みながらいろいろと建設的な意見交換をした後に、安西さん家にそのまま泊まりにいって、起きたら朝からひとり2合の米が出てきて納豆一個で「食え」みたいな(笑)そんなことやったりとかね。

全員:

(笑)

窪田:

いろいろなエピソードがあるけど、真面目な話、それぞれ思うところもあるし、目指すところも違うし。
さっき言ったように私は劣等感が半端なかったので。みんなすごくて。社会人2年目が終わった時点で一度クビを宣告されたんですよ。それで直々に「あともう少しやらせてくれ」とお願いしに行って。
ちょうど、部員が15人くらいいたときで、いきなり5~6人に絞られた時なんですよね。残ったのは野沢さん、安西さん、米倉さん、菅間さん(1995年入部、十種競技)、自分・・・この5人ぐらいになっちゃった時に、私は早々に脱落しかけて。みんな日本選手権に常に3番以内入れる人たちの中で、一人だけ日本選手権予選で落ちたりしてたので。なので、苦しかった思い出がすごくありますね。

松井:

仕事もね、週1回出社して、っていうのは僕らの時にその仕組みを作って。

安西:

週1回出社して、「今日の仕事は何ですか?」て言うと、「どこどこで手が足りないから、どこどこに行って」って言われて、陸上部でゾロゾロと行って。
例えば、『地価マップ』作ってる時には、地価のポイントを地図上に落として、その金額を入れて、というのを延々やってたり。あとは、クレーム記録簿を見ながら地図が修正されているかどうかを確認したりとか。
あとよく覚えているのが、当時ナビソフトが新しく切り替わって、戻ってきた古いやつが会議室に箱で山積みになってて。それを、ケースとディスクと部材とをばらして、廃棄する作業を延々とやってた。一箱どれくらい入ってたのかな?100枚か200枚くらい入ってて。みんな一箱ずつ持ってきて黙々とやってるんだけど・・・同じ作業を延々としてるとリズムが・・・だんだん「周りの人よりも少しでも速く!」ってなってきて(笑)

松井:

俺も最初入った時って、DM折りとかの雑務だったんだけど、山内健司さんがDM折って入れるのめちゃくちゃ速かった!

全員:

(笑)

松井:

だからその時、「トップアスリートってこういうのもすごいんだ」と思ったね。俺も結構自信あったんだけど、ものすごい速さでぽんぽんやってくから。

――アスリートならではの集中力というか、すごいんでしょうね。
野沢:

横と競争し始めちゃうから。

安西:

それで野沢さんがついに、「(競うの)もうやめようよ!」って。それで我に返って(笑)

野沢:

ひたすら(廃盤になった)ディスクにカッターで傷をつけてね。苦痛だよね(笑)
まぁ、そういう作業仕事ばっかりじゃなくて、他にもいろいろあったと思うよ、『郵政マップ』の制作とか。

――同じ職場の社員の方とは交流とかありましたか?
窪田:

飲み会とかたまに誘ってもらったりとかしていましたけど、忘年会とかね。出社した時はそれなりに楽しくはさせてもらっていました。ただ、どうしてもお客さん扱いになってしまうので、そういう感じの中で仕事はできていたかなと思います。

松井:

俺だけ新入社員の時、社員研修を3週間フルで受けてるんだよ。当時、陸上部ができたばっかりで何のルールもなかったから。3週間、他の同期のみんなと北九州の研修センターで社内研修をびっちり受けてきた。だから引退して仕事に移った時も、職場にはその時の同期がいるから、そこは割と入りやすかったよね。
ただ選手時代に出社してる時は、同期とかは違う部署だったし、窪田くんが言ってるようにやっぱりお客さん扱いだったよね。飲み会とかはたまに出るけど。

<プロフィール>

野沢 具隆

1990年入部。種目は砲丸投と円盤投。砲丸投で日本選手権4連覇(95~98年)、1996年に当時の日本記録を更新(17m91)。2000年に引退。現在は自治体関連の営業に携わる。

松井 仁

1991年入部。種目はやり投。1993年に引退した後は、住宅地図関連の営業で活躍。営業所長や支社長を経て、現在は関連会社の取締役営業本部長を務める。

安西 啓

1994年入部。種目は三段跳。1994年広島アジア大会では8位入賞。1999年に引退。GISやITS営業を経て、現在は高精度地図データの企画整備に携わる。

窪田 慎

1995年入部。種目は短距離。1998年バンコクアジア大会で4×100mリレーに出場し、金メダルを獲得。2001年に引退した後は、ITS部門でナビデータの営業等に携わる。

ゼンリン陸上競技部に関するお問い合わせ